【ブラひろし】未完の名城?伊賀上野城
1月26日(日)
正しくは『上野城』と銘打たれる伊賀上野城は、三重亀山から大阪方面へと抜ける道筋の中間地点に位置する上野盆地の略中央部に在する、梯郭式の平山城である。
上野盆地中央部の小高い台地に上野城は築城された。それは、山々に囲まれた伊賀の中心的機能を持っていたと推測できる。上野盆地は12万石ほどの石高があったが、江戸期には藤堂家の領地に含まれた。故に上野城は、藤堂家の地方政庁として、その役割を担っていたと考えられる。
さて、上野城。日本百名城に名を連ねている御城だが、現在の遺構を見る限り、築城の途中で工事を辞めざるを得なかった「未完成の城」という様相が散見される。無論、全て私見でしかないことを予め御断りしておきます。
上野城を語る上で欠かせないのは、上野城を城郭として完成させた筒井家と、後に筒井家の城郭を改修にあたった藤堂家の存在である。筒井の造った上野城本丸の東側を広く改修し、日本で二番目の高さを誇る高石垣(この石垣が上野城の名声の源だろう)を藤堂家の開祖である藤堂高虎が造ったわけなのだが、ある意味で大阪を護る構造を持っていた上野城を、藤堂高虎は大阪からの攻撃に備える御城に作り変えることに腐心させられた。つまり上野城は、豊臣の天下から徳川の天下に変遷する時期に「変化を求められた城」とも言えて、移り変わる時の流れの中で、このような役目を担わされてしまった城が、さて、この日本に幾つ在るのか?と考えさせられてしまう御城でもある。
城域は、古地図を見る限り12万石を有する城として手狭な感じがあり、大手は南側の二箇所に配置されていたようだ。所見を述べれば、西側の防備の堅さは見る者をさえ圧倒するが、東側はというと子供でも登り降りが可能に思えるほどの斜面が広がるのみ。しかし、筒井時代の旧本丸の石垣は野面積みから打込みハギに変わる過渡的な時代感があって興味深く、かたや藤堂時代に本丸とした西側石垣は見事な打込みハギで作られているというところは、一つの見どころとなるだろう。
筒井時代の本丸は、枡形虎口が南西部分に配置されていたり、鉄壁さを備えていて、それは今でも分かる程である。つまり、旧本丸が本当の本丸のような作りだ。さらに言えば上野城は、城域に対して本丸部分の広さが大きく、「籠城を考えた城」の感がどうしても否めない。味方の将兵が疲弊する前に籠城を決め込んで、高台の上に在る本丸の周囲に迫りくる敵兵を密集させた後に、その敵軍を城方の援軍が取り囲んだり遊撃したりすることで「敵の殲滅戦を展開する」といった機能を想定した城だったのではなかろうか。私には、上野城内を巡るなかで、そういった考えが次第に強くなっていった。
それは、叶わずとも築城の名手と謳われた藤堂高虎に、縄張りに於ける設計意図を聞いてみたいと思わせる名城だったと言うことでもある。
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