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【ブラひろし】真田氏発祥の御城①

今回のブラひろしは日本人に馴染み深く、また大変有名でもある真田氏の御城です。 
真田十勇士、真田三代といったワードを聞いただけでも心躍る気持ちになるのは決して私だけではないでしょう。 
 
さて真田の御城といえば、上田城や岩櫃城、沼田城、名胡桃城、はたまた真田丸などを思い浮かべるという方が多いと思いますが、今回は、真田発祥の地・真田郷に焦点をあてて、初期真田の城塞機能に迫ってみたいと思います。 
なぜなら真田郷の城には、戦上手でもあった真田三代(幸隆・昌幸・信繁)の築城理念の根本が隠されているに違いないと思うからです。 
 
真田郷は、家祖幸隆の長男である信綱までが拠点とした地域です。武田信玄の武将だった幸隆が信玄の亡くなった翌年に死去。相次いで二代目の信綱が次弟の昌輝と共に長篠合戦にて戦死。これにより武藤家に養子に入っていた幸隆の三男・昌幸が真田家を継ぐことになりました。 
独立武将を目指す昌幸が1583年に街道に近い上田に上田城を築城し、真田郷の領民を引き連れて上田に引っ越すまで真田郷が真田の拠点だったわけです。真田郷の話は有名な歴史家の方々が様々に論文を残していますが、無論その話を書き連ねるのは『ブラひろし』の本意とするところではありません。何度も申します通り今回も、城塞としての機能を見ながら「真田城が如何なるところだったのか」という点を独自の観点で推論してみたいと思います。 
 
真田郷がどれだけの石高を持っていたのかを、まだ私は掌握しておりません。ただ牧が在ったということから、どうやら騎馬を育成する地だったようで、石高と合せて牧からの収入がある土地柄だったと推測することが出来ます。 
真田郷は上田から北に上がった小さな盆地のようなところで、街道から離れ、上田城下を流れる千曲川へと繋がる神川沿いに形成されています。 
上田方面から望むと、北西の山上に砥石城、北東に矢沢城があり、この二つの城が真田郷の門柱のように映るのが面白いところです。この門柱の間を更に北に進むことで多くの文献に登場する『真田本城跡』に至ることが出来ます。真田本城跡は通説では真田郷に於ける真田氏の本城だったと言われています。そこで今回の視察では、この真田本城と呼ばれる『松尾城』と『真田氏館』を見て参りました。 
しかし、真田本城=松尾城を詳細に散策すればするほど私には一つの疑問が浮かびました。この城を真田幸隆という人物が本城と定めるのだろうか。という疑念にも似た疑問です。なぜなら、この松尾城は『城』というより『砦』と呼ばれる機能しか持っていない城だったからです。大手もなければ搦手もなく、100名の兵を配置することすら困難な城域の狭さは、幾ら峻険な尾根に築かれた城とはいえ大軍で攻められれば半刻と保たない規模だと言えます。 
悄然たる思いを胸に、眼下に見える真田郷の地形を眺めつつ私が次に向かったのは真田氏館跡でした。この、真田幸隆が崇敬していた武田信玄の躑躅ヶ崎館に妙に似ている居館跡を見たとき、私には真田幸隆の構想がハッキリと目に浮かんだのです。 
それは、真田の御城は真田郷全域だったということです。 
 
真田氏館跡から周囲に目を配ると、真田氏館を囲むが如くに城が点在します。真田氏館から南に下り矢沢城、時計回りに砥石城、根小屋城、横尾城、内小屋城、松尾古城、松尾城、天白城という風に高台に連立しているわけです。つまり、それぞれが一つの城塞の要所要所に配置された『隅櫓』のように展開されています。そして、それぞれの城の規模が小さいがため少人数で守りを固めることが可能であり、真田氏のように小さな地域を納める武将にとって、このシステムこそ正にうってつけの防御網構築だったと言えたのでしょう。それぞれの城(砦)が御土地柄から大変見晴らしの良い地形に在り、連絡手段として武田氏お得意の『狼煙』を活用することも容易だったと思われます。 
即ち、真田氏の本城は、じつは松尾城ではなく、私の推論では『真田氏館』だったということになります。 
無論、幾ら防御力が高くとも居館は居館でしかありませんから後詰の城が必要です。 
そこで幸隆が考えていた最後の砦(後詰の城)も、真田郷そのものを城塞とした機能から紐解くとすると、長年に亘り通説で言われている松尾城(真田本城跡)などではなく『松尾古城』だったということになってしまうのです。 
 
平地面積が少ないことを考えれば決して石高は高くなかったでしょうし、牧を擁していたとはいえ用兵人員に限りのある真田郷を守るために編み出した真田氏の城塞システムは、本城(真田氏館)の守りを巧みな支城配置で固めるという、現代にあっても考えも及ばない智力の粋だったようにも思います。 
真田三代の戦いぶりを思い起こす時、城塞を籠るための施設として使おうとせず攻撃するための施設として捉える巧緻に、六連銭に込められた真田氏の覚悟を垣間見ることが出来ると思うのは私だけでしょうか。鉄壁の【守り】を自負した城塞は世に数多ありましたが、さて【攻撃】を主眼に置いた城塞はこれまでに幾つ在ったでしょう? 
そもそも隅櫓は城塞機能のなかで外敵を侵入させないための防御施設なのですが、真田城(真田郷)の場合その配置は、侵入者に対して挟撃を加えられるよう配置されているところが見事です。 
 
というところで今回の『ブラひろし』は終了です。 
上記は飽くまでも私個人の見解であり、これからも何度も真田郷を訪れたいと思っておりますし、再訪の後に上記の推論が間違っていると感じる可能性も非常に高いと思っております(笑)ともあれ真田郷はとても魅力ある地だったのに間違いはありません。 
ぜひ皆さんも御時間のあるときに訪れてみて下さい。

合田 洋